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碁打ちが天文学者?改暦を行った碁打ち二代目安井算哲

江戸時代、碁打ちを行う人の中で優秀な棋士は初代将軍、徳川家康が碁好きだったため正式に給料を与えられて江戸幕府に仕えることになります。二代目将軍秀忠の頃には江戸城で将軍の目の前で碁を打つという御城碁が行われるようになり、本因坊家や安井家などの家元制度が始まります。その安井家に異色の経歴を持つ棋士がいました。二代目安井算哲、名前を渋川春海と言います。

碁打ちにして天文学者

渋川春海は江戸幕府碁方の安井家・一世安井算哲の長男として1652年京都に生まれ、父の死後13歳で二代目安井算哲を継ぐことになります。21歳の頃には幕府から正式に給料をもらい御城碁に出仕するようになりました。実はこの渋川春海は碁が上手いだけでなく、京都に住んでいたこともあって数学や暦法、天文暦学、神道も学んでいたのです。

21歳の頃に当時使われていた宣命暦という暦に誤差が生じていたため別の暦を元に日本各地の緯度・経度を計測し、その結果をもとに授時暦という暦に改めるようを願い出るということをしているのです。しかし1675年、渋川春海が授時暦を元に算出した日食予報は外れてしまったのです。日食予報が外れてしまったことから改暦に失敗しました。しかし彼は1670年の頃から行っていた天体観測のデータを元に中国の暦ではない、日本独自の暦を作ることにしたのです。

新暦作成へ

彼は失敗の原因を調べるうちに中国と日本では今で言う経度の差があり、そのため時差や近日点(天体が楕円軌道で動く際に生じる遠近の差)の異動が発生することに気づきました。

そこで授時暦に詳しい学者の協力も得て授時暦を独自に改良、日本で初めての国産暦、大和暦を作成します。大和暦の採用を求めましたが妨害に会い失敗するも、時差の問題を主張し当時の暦の責任者で親交のあった土御門泰福、御城碁でつながりのあった水戸黄門こと徳川光圀などの有力者の人間関係、そしてなにより自身の観測データの積み重ねから生まれた暦の理論によって改暦を実現させました。その後大和暦は貞享暦と名前を変え、その後の日本の暦の基礎となりました。

碁打ちとしての安井算哲

渋川春海は二代目安井算哲として御城碁を17局勤めました。1659年に本因坊道悦に勝利したのをはじめとして道悦を相手に2勝2敗1分け。1668年、歴代最強の一人に挙げられる本因坊道策には一番だけが不明ですが11敗。1684年道策の弟、井上道砂因碩に1敗。1985年に江戸幕府初代天文方になる際に碁方を辞めています。

囲碁の打ち方も天文の法則に当てはめていたらしく、初手に碁盤中央の天元を打つべきとしていました。しかし、1670年の道策との対局の際に「もし負けたら一生天元には打たない」と言い敗北。それ以降初手天元をあきらめたとされています。その後、安井算哲は正式に渋川を名乗り、幕府から武士身分を与えられ渋川家は天文方を世襲していったそうです。

碁打ちとしては異色の経歴をもつ2代目安井算哲こと渋川春海の紹介をしましたがいかがでしたでしょうか。変わった経歴を持つ棋士がいたことを知ってもらえたら幸いです。彼は天文の知識も持っていたことから日本で最初の地球儀や天空の動きを表す天球儀・渾天儀などの天文機器を作っており、レプリカも現存しています。なお、冲方丁が渋川春海を主人公とした「天地明察」という本があり、この中でも本因坊道策との対戦が描かれています。岡田准一主演で映画にもなっていますので興味のある方はぜひ見てみるとよいでしょう。

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