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三英傑も認める腕前、本因坊算砂

さまざまな時代でも碁は有力者のたしなみとして行われていました。「枕草子」「源氏物語」「徒然草」などの古典にも登場し、戦国時代でも足利義昭や徳川家康などの武将や公家などの有力者が囲碁や将棋をたしなんでいたのです。その中でも織田信長、豊臣秀吉、徳川家康に腕前を認められ碁打ちを職業とした、その始まりともなった棋士、本因坊算砂についてご紹介します。

本因坊算砂とは

日蓮宗寂光寺の塔頭本因坊の僧で法名を日海と言います。元は舞楽宗家の家の生まれで1559年に生まれ、8歳の時に叔父であった日淵という僧に弟子入りして出家しました。仏教を学ぶとともに当時囲碁の強豪だった堺の仙也に師事して囲碁を学んだといいます。そして江戸幕府から碁打ちとして俸禄を受け、碁の家元本因坊家の始祖となり同時に碁打ち将棋指しの最高位、連絡係に任ぜられ家元制度の基礎となりました。

碁の名手として時の天下人に認められる

本因坊算砂は1578年、上洛してきた織田信長に碁を披露し「名人」と言われたそうです。信長が明智光秀に謀反を起こされる本能寺の変の前日にも囲碁を披露していたらしく三劫というめったになることのない状況になり、その翌日信長が死んだため「三劫は不吉」と言われるようになりました。(これらにはのちの創作という説もある)信長の死後、豊臣秀吉が天下を取ると今度は秀吉に招かれます。1585年・1588年に御前試合が開かれ、その二回とも算砂が優勝したといわれています。

その際に秀吉から20石10人扶持を与え、碁の役職も与えたそうです。秀吉の死後は江戸に幕府を開いた徳川家康に近づきます。もともと徳川家康は碁が大好きで、算砂が駿河に行った際に徳川家康と連日連夜碁を打っていた、という記録もあるくらいの碁好きでした。1603年、徳川家康が征夷大将軍になったとき、算砂はお祝いに参上し家康と対局したそうです。その後1612年には幕府から算砂をはじめとした当時の碁の名人たちに正式に俸禄が与えられました。50石10扶持をもらっていたらしく、現在でいうところだと年収400万ほどになります。この時、初めてプロの棋士が誕生しました。

算砂の功績~採譜の習慣化~

算砂が名人碁所として俸禄をもらうようになり、碁打ちは正式な職業となりました。算砂が活躍したころから採譜が習慣化し、今では先人の技術を知ることができるようになりました。算砂自身の棋譜も現代の棋士によって調査されていて、その内容は非常に優れているということが明らかになっています。日本初の囲碁出版である「本因坊碁経」という詰碁や手筋を収録した本を出版しています。

実は将棋も名人クラス

囲碁の名人、本因坊算砂ですが実は将棋もうまかったようです。算砂と同じように名人と呼ばれた大橋宗圭との対局で8局の棋譜が残っています。算砂の1勝7敗と負け越していますが、その最後の8局目はかなりの接戦だったことが分かっています。

いかがでしたでしょうか。時の天下人らを渡り歩き、徳川家康との関係を良好に保ち囲碁を遊びではなく正式な職業としたことは本因坊算砂の最大の功績と言えるでしょう。特に採譜を習慣化させたことはのちの碁打ちの技術を向上させたほか、当時の江戸の庶民も娯楽として楽しんだはずです。信長とのエピソードなど創作とされるものもありますが、その功績の大きさと当時の江戸庶民の囲碁人気を表しているのではないでしょうか?

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